ねことようろうさん
信仰というのを考えると、論理的に言うと、それは一種の自己否定の逆ですね。信じるという行為と神さまという存在はイコールなんですよ。つまり神さまというのは正体不明だから、それを信じるという事は、要するに「信じているという事」を信じている。それはもっといえば、自分が正しいと言っているのと同じことでしょう。
みなさん「発見」って、何かを見つけることだと思っているんでしょうね。違うんです。たとえば、ある日突然、今まで同じだと思っていた虫が違う種類であることに気づくとする。それは「違いがわからなかった自分」が「違いがわかる自分」に変わったということ。見える世界が変わったということなんです。つまり、「発見」というのは「自分が変わる」ことに他ならない。自分が変わった瞬間、世界も変わるんです。
今は極端で、なんでも言葉にしようとする世の中ですよね。言葉にすると変わらないものになるから。情報化社会ってそういうことです。変わらないもので埋め尽くしていく。そうすると意外にわからなくなるのは、生きているとはどういうことかということなんですね。
「私は私」と思っているという事は、「私は情報である」と思っていることと同じです。情報化社会というのは、IT技術の進歩した社会だと思っている人が多いでしょう。とんでもない。人間が自分を情報だと思う社会が情報化社会です。
自分が情報だと思うということは、自分が変わらないということです。情報というのは不変ですからね。
何かを知るということは、知識が増えるということではなく、実は自分が変わるということです。
意識を変えるには、違う世界に生きればいいんです。どうしたらいいか、みなさん頭で考えてしまうでしょう。その段階ですでに、意識の穴に落ちているんです。
感覚のことは頭で考えないほうがいいんです。「どうしたらいいか?」って、聞いちゃだめ。それをやっているうちは、意識の中で生きている。変えてくれるのは「外の世界」なんです。だからトランプだって別荘に行く。そういうことです。
感覚を鍛えることの重要性は、実は「脳みそを変える」ということなんです。外の世界と脳みそが関わり合うのは、感覚を通してだけです。感覚から入ってくるもので脳は変わっていくんです。それを環境という。
~ 養老孟司
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