あおそら

自分のための走り書きらくがき帳 

みうらまさしさんインタビュー

柴田元幸」から「村上春樹」が見えてくる
この本を書いた動機は、単純に「柴田元幸って何だろう?」という疑問なんです。それが最終的には世界文学の変容まで話が行っちゃったわけだけど、最初はそんなつもりはなくて、単に僕の周辺の若い人たちに柴田元幸のファンがとても多いことが不思議で、自分でそれをとことん考えてみようとしただけ。原作者ではなく翻訳者に惹かれるなんて、あまり聞いたことがなかったですからね。
それで、フォークナー、ヘミングウェイあたりから、現在のパワーズ、エリクソン、デリーロまで、二年くらいかけてアメリカ文学を全部読み直してみた。アメリカ文学の現状を書いた評論もずいぶん読んだけれどあまり要領を得なくて、本当に困ったときに、やっと気づいたのが村上春樹だった。彼のほうが重大だったんです。
僕は村上春樹を最初に論じた人間の一人だと思うし、徹底的に読み込んできたつもりだったけれど、柴田元幸という項をいれて再読してみて、まだ本格的に村上春樹をやってなかったな、と感じた。そこで初めてわかったことを書いたのがこの本です。
柴田元幸がなぜこれほど、翻訳者であるにもかかわらず多くのファンを獲得したか。それは、村上春樹が持っている文学世界と地続きの世界を柴田元幸が持っていて、その世界を舞台に、オースターとかダイベックミルハウザーが存在しているからです。
村上春樹が登場したのは1980年前後ですが、その前までは小説という概念が今よりもっと狭くて、基本的に、作者に無限に近い「ある人間の人生」を描くのが小説だと捉えられていた。だから、テレビドラマや映画などがその代わりになり得たんですね。 けれど、村上春樹が影響を受けた、サリンジャーとかヴォネガットブローティガンは、本人たちは気がついてないにせよ、それまでの小説とは違うことをやったわけ。すなわち、社会とか人生というものが幻想だということを強く出しつつ、それを哲学的な話に持っていくような野暮はしないで、そのからくりを、ただすっと出す。
もちろん、それをやったのは彼らが最初ではなくて、チェーホフカフカなどもいましたけれど、いずれにせよ、そういった小説の影響を村上春樹は強く受けた。たぶん彼自身の資質もあったのでしょう。 そのころから、普通の意味での人生の物語はもはや成立しない、むしろ、幻想譚とか寓話のほうが遥かに人間の心のリアリティを捉える、というふうに小説は変わりはじめていたんです。

なぜ、翻訳でなければならないのか
もちろん優秀な文学者というのは、太宰治であれ三島由紀夫であれ大江健三郎であれ丸谷才一であれ、必ずそういう部分を持っています。でも典型的な小説概念に覆われてしまっていてよく見えなかった。
村上春樹は、そういった典型的な小説概念からすっと身をずらしてしまった。そのほうが「いま・ここ」にいることのリアリティをはるかに強く感じられるからで、それが読者にとっては魅力だったんです。
最初、村上春樹の流儀は孤立したかもしれないけれど、後に続いた若い作家は、彼の影響を強く受けていますよね。ちょうどそのとき、ラテンアメリカやポストコロニアリズムの作家がぞくぞく登場して、世界文学的なパースペクティブで見れば、寓話によってリアリティを追求するほうが主流になりつつあった。 そして、考えられない偶然が起こり、村上春樹の翻訳を柴田元幸が手伝うことになる。この二人の出会いというのは宿命的ですね。本当に驚くべきことだと思います。
柴田元幸には、村上春樹と合致する資質があって、それを僕はメランコリーと呼んでいるんだけれど、それは時代の資質のようなものでもあったわけです。 それから二人は、自分たちの思想を表現するには翻訳が一番ふさわしいことに、潜在的に気がついていく。要するに自分が「いなくなること」によって「いる」という仕掛けがこの二人にとって重要だったんです。だから二人とも同じ問題を抱えている作家の作品しか翻訳しない。村上春樹が『1973年のピンボール』で翻訳事務所を書いたときは、それが自分自身にとって重要なメタファーであることに気づいてはいなかったと思います。

「冥府」に降り立つことの意味
19世紀から20世紀にかけて、大体において、小説で描かれる人生というのは、青春とイコールだったわけです。それがどうもうまく行かなくなっちゃった、ということを僕は『青春の終焉』(2001, 講談社)で書きましたが、この本はその先の文学に関する中間報告みたいなものでもあります。
何かが変わらざるを得ない時というのは、それまでかけていた色メガネが剥ぎ取られて、いろんなことがあらわに見えてきます。人間は嘘をつく生き物で、自分にも嘘をつくし、社会が社会に対しても嘘をつく。社会的な意味性というのは大体は幻想にすぎなくて、皆で決めた幻想を肯定することを「大人になる」といい、社会的な意味性を知ることを「現実を知る」といっている。
たとえばコーヒーカップにしても、ノリタケだとかいろんな意味が付与されているけれど、子どもの目から見れば、単に土から作られた物質でしかない。そして、ものが物質として生々しく存在する世界こそが現実であり、現実だと言われている世界のほうが幻想かもしれないんです。
ものが物質になりきることが死ぬということであるならば、あの世とはすでに自分が知っている世界を指すんじゃないか、この世からあの世へ降り立つ冥界下降譚は、実は僕らが毎日経験していることなんじゃないか、それこそが一番根源的な問題ではないか――というのが村上春樹であり、柴田元幸です。彼らにとって、幻想を発生させる場所の仕組みこそが、関心の的なんですね。
メランコリーは、受け入れたくない「現実」の世界へ入っていかなければならないときに発症する病気みたいなものです。「現実」に対して距離を取りたいから、今起こっていることはすでに終わってしまったことなのだと考えるわけ。そういう心の状態のほうが楽だから。ああ、こんなふうにして人生は過ぎていくんだな、と、目の前で起こっていることを、まるで遠い昔のことのように遠くから眺めているような感覚、記憶としての現在。そんなメランコリーを村上春樹は作品化することに成功し、同じ思いを持つ多くの人々の心を捉えたといえます。

膨張する「現実」と、もうひとつのアメリカ
現実だと思っていることがひょっとして幻想かもしれなくて、あらゆるものが無意味かもしれないことに気がつけば、まったく違う目で世界を見て、まったく違うように生きていくことが出来る。文学にはそれぐらいの力があるし、社会とか経済とか政治を解く非常に重要な鍵が、その中に潜んでいる。
僕は本の最後で、駆け足でアメリカという国家そのもののことを書きましたが、それはもう少しじっくり取り組んでいかなきゃならない問題だと思っています。いま、世界経済や軍事を牛耳っているアメリカでは、生産性の高い「大人たちの現実世界」のほうがどんどん強くなってきているけれど、ブッシュがやっていることなんてただのゲームだし、そこに集まっている一握りの連中だってゲームの駒になっているに過ぎない。でもその規模が大きくなっていくものだから、もうひとつの世界、「少年たちの生々しい現実」の世界もそれに合わせて大きくならざるを得なくなってきている。だから、オースター、ダイベックミルハウザーのようなおとなしいものから、パワーズやエリクソンのような暴力的なものまで、強烈なメランコリーを漂わせた小説がもっともっと出てくるだろうし、その傾向はさらに強まっていくだろう。
それはアメリカだけじゃなくて世界文学も同じで、村上春樹柴田元幸が立ち会っているのは、そんな世界文学の変容の瞬間なんじゃないか。そしてその変容というのは、僕らが興味を持って真剣に見つめていかなくちゃいけないことなんじゃないか、と思うんです。
(2003年7月15日)

村上春樹柴田元幸とアメリカの憂鬱」~Exciteブックス