あおそら

自分のための走り書きらくがき帳 

ようろうさん

虫をやっているといろんなことが分かってくる 分かってくるとこっちが変わってくる

解剖というのは自然物に名前を付けていく行為 そうすると人は分かったという あそこで光っているのはおひさま 夜になって光っているのはお月さまと名前を付けていく と安心する 体の中は何も付いていない それで付け始める それが解剖のはじまりではないか しかも名前を付けるということは物を切るということ 一個のものでも名前を付けると切れる 消化管なんて一本の管なのに一が口腔で次が食道で次は胃と決めれば切れる 胃の粘膜が食道に飛び火していれば? いくらでも問題でてくる それは人の体を脳みそに翻訳するということ 解剖というのは名前を付けるということから始まった行為だと思ってきた だから切る具体的に 切る行為と名前を付ける行為は裏腹でくっついている 世界をばらばらにして切っていく これを認識する だから解剖というのは見えるものを意識化していく言語化していく行為

死人って極めて抽象的な考え方 だから初七日や一周忌がある おそらく徐々に死んでいく 人が死んだという事を納得するのはけっこう大変 生きている死んでいるを分けているのは極端に言えば法律 人がある瞬間に死ぬというのは頭のなかの話

模型じゃないから無限に奥が深くなってくる それは世界の深み広さ 気が付かない世界を作っていく 物事が理屈で切れるか 虫を見てるとそれがよくわかる それが役に立つのか? でもあるものはしょうがない 世界ってそういうもの

もともとの自分はいないと思っている 今の自分が自分 おれって何だって?そんなこと考えたって無駄 

 

われわれは感覚でいったいなにをまずとらえているのだろうか。 それは世界の違い、変化である。なにも変化しなければ、たとえばなにも音がしなければ、耳は動かない。ありのままの感覚を研ぎ澄ませることで、世界はちがって見える。そう語りかけたかった。

動物と人はどこが違うんだろうというのが長年の疑問だった。それで感覚の話になった。感覚から人は離陸しちゃった。それで同じというのを作ってしまったから 同じでやってるから同じに‥‥以下略。

                             養老孟司

 

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)