もりたさん
あえて機械を模倣するのは生命の惰性と習慣を抜け出し、より自由になるためである。
規則に服従することによって、人は習慣や惰性を逸脱していく力を手にする。
機械が人間よりも優れている点は、「無意味を恐れない逞しさ」を持つことだ。
「超知的な機械の出現よりも恐ろしいのは、半知的な人間の登場だ」と喝破したのは、アメリカの哲学者ヒューバート・ドレイファスである。
身体的な実感を伴わないまま、ただ規則に服従することによって、様々な事柄が成し遂げられるようになった。このとき、恐れるべきは、規則の存在それ自体ではなく、いま自分がどのような規則に服従しているかを、自覚できなくなっていくことだ。
人間が、自らの感性で機械を抱きとめることをやめてしまえば、残るのはただ「無意味」を生産し続ける機械と、「半知的」な人間だけである。
数学を学ぶという事は数学者たちが結果としてたどりついた「規則」を学習するだけにとどまらないのだ。あらゆる規則が、血の通った人間の思考の産物であると知ること。規則を選び、それを自らに課すことによって、人は自由と可能性を追求してきたのだと認識すること。いま自分がどのような規則に服従しているかを自覚し、その規則の妥当性を批判できるような知的自立性を獲得していくこと。そうして、逞しい機械を内部に取り込みながら、同時に柔軟でしなやかな生命であり続けるという矛盾を生き抜いていくこと。それこそが、言葉の真の意味で「数学する」ということなのではないかと、私は思うのである。
~週刊新潮2/14号 森田真生さん