あおそら

自分のための走り書きらくがき帳 

ようろうさん

じゃあ理論の極端さがなぜ有益かというと、両極で成り立つことはそれより内側ではかならず成り立つからです。理論のよさはそこだと、私は思ってます。両極を考えて、はじめて中庸が成り立つんです。両極をちゃんと見切れば、中央はわかります。

ふつうはそれを考えないで、いきなり真ん中に落とそうとする。それを中庸だと思ってる。それをやると周囲に引きずられます。みんなの意見を聞いて、真ん中をとろうとすると、どんどん引きずられるんです。「みんな」って、だれですか。自分の周囲の人でしょ。かならず限られたサンプルになっちゃうんですよ。たとえ日本人全体の意見を聞いたとしたって、時代というものがありますからね。「いまの時代」の意見に流されちゃうんですよ。戦争中も紛争中もそうでしたよ。 ~p.95

科学だって、しょせんは脳の紡ぎだす物語じゃないですか。 ~p.119

「材料と方法」のほかに、科学論文にかならず書かれているものがあります。それは著者の名前です。これもじつは「方法」でしょ。その人の脳ミソが使われているからですよ。ほかの人の脳ミソを使ったわけじゃない。それが著者名になるわけです。著者名こそ、まさに「脳という方法」なんですよ。 p.128

意識は年中、途切れるわけです。たとえ途切れても、途切れる前と「同じ」、それをいうのが意識の務めなんです。さらにいうなら、「同じ」という機能は、意識が与えるんですよ。現代はその「意識」が基本の世界、意識中心主義の世界です。「同じ」という意識の機能が中心になった世界ですから、言葉の世界となり、情報の世界となる。情報も言葉も、「同じ」という機能の上に成り立つんですから。 p.174

千年以上、抽象思考は仏教漬けになってきたんですから、日本語を使ってものを考えたら、「仏教寄り」になるのは当然ですな。だから学問とは方法じゃないか、って書いたでしょ。学問の最大の方法のひとつが、言語なんですから。その言語の癖は、思考の癖を導いてしまいます。~p.175

 

養老孟司の人生論

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